あの星の美しい夜から幾日かして、急に屋敷が慌ただしくなった。
ざわざわと、蒼い顔をして囁き合う女中たち。
真っ赤な顔をして、拳を振り上げては喚き散らす男ども。
神楽耶は桐原に、今日のご祈祷が終わったらすぐに京都に戻るようにと言われた。
かか様が心配していると。
お稽古も全て休んでよいから、かか様と京都の屋敷の奥座敷でゆっくりするようにと。
祭壇には、見たことのない巫女までが集まっていた。
神楽耶が先頭となり、祈りを捧げる。
それを見つめる人々の視線には鬼気迫るものがあり、少しだけ、恐ろしかった。
屋敷中の人間。付近の村の者ども。
・・・そこに、枢木のお兄さまの姿はなかった。
祈祷が終わり、帰り支度をするころになっても、お兄さまはいなかった。
―――きっと、鬼のところにいるのじゃろう。
そう思うと、いてもたってもいられなくなった。
鬼は、神楽耶には笑わぬだろう。
それでも、神楽耶は鬼に会いたい。
次にいつ会う機会があるかわからぬ。京都に戻ってしまったら、しばらくは姿を見ることすら出来ぬ。
見るだけでも良い。
あの美しい姿を、もう一度見たい。
そうすれば、神楽耶は努力し続けることができる。
―――いつか、鬼に認められ、笑顔の鬼に「ありがとう」と言えるように。
神楽耶は走った。
草を踏みしめ、息を切らして。
やっと着いた土蔵の前には、お兄さましかいなかった。
閉まった戸を叩き、怒鳴っている。
土蔵の中からは、静かでよく通る鬼の声。
気づかれぬよう、神楽耶は先日と同じ木の陰に隠れた。
「おいルルーシュ!!開けろ!!」
「うるさい。ここにはもう来るな。」
「なんでだよ!訳わかんねぇよ!」
「どうしてわからない。昨日見たのを忘れたのか。ブリタニアは日本に宣戦布告したんだ。」
「だからって、お前もおれと喧嘩すんのかよ!」
「違う。違うけど、僕たちは一緒にいてはいけない。スザク・・・僕は廃嫡されたとは言え、この身に流れるのはあの男の、ブリタニア皇帝の血だ。」
「それがどうしたって言うんだ!」
「・・・僕たちと一緒にいるところを見られたら、スザクが嫌な思いをすることになるかも知れない」
「何言ってんのかわかんねえよ!いいから開けろ!開けねえとこの戸、ぶっ壊すぞ!」
戸がゆっくりと開く。
生まれた隙間に腕を捻じ込み、お兄さまは転がり込むように中に入った。
そして、お兄さまの怒鳴り声も、鬼の悲しい声も、聞こえなくなった。
足音をたてないように注意しながら、神楽耶は土蔵の前、開かれた戸の陰へと移動した。
そっと、中を覗き込む。
そこには、鬼と、鬼を抱え込むようにして抱きしめるお兄さまと、心配そうにしている少女がいた。
―――あれが、鬼の妹か?
そう思ったのもつかの間、お兄さまの声が聞こえてきたから、神楽耶はそれに神経を集中させた。
「一緒にいなかったら、守れないだろ。」
「・・・僕は、守られなくたっていい。」
「お前がよくても、ナナリーはどうするんだよ。」
「・・・僕が守る。」
「お前が怪我したら、誰が守るんだよ。」
「・・・それは・・・」
「お前はナナリーを守る。そして、俺がお前を守る。そうすればいいだろ。」
「・・・僕は、スザクが嫌な思いをするのは嫌だ。」
「俺だって、ルルーシュが嫌な思いをするのは嫌なんだ。」
「・・・でも、僕がスザクを守るために出来ることは、一緒にいないことだけなんだ!」
「そんなのは許さない。俺を守りたいって思うんなら、一緒にいて守る方法を考えろよ。お前が何を言っても、俺はお前を絶対に守るからな。何があっても、何をしてでも。」
鬼が息をできなくなるのではないか、と不安に思うほど、お兄さまは更に腕に力を込めた。
お兄さまの頭と肩の間から見える鬼の顔は、やはり苦しそうで。
鬼の両腕は、ゆっくりとお兄さまの背にまわり、弱弱しく服を掴む。
それは、お兄さまから離れようとする動きではなく、むしろ、より近づこうとしているようで。
―――悲しみに満ちた空気を纏いながらも、2人の姿は美しかった。
―――まるで、夢幻のように。
「・・・ありがとう」
そう呟いて、神楽耶はその場を立ち去った。
きっと、あの夜の鬼の笑顔と今日の2人の姿は一生忘れないだろうと予感しながら。
**********
かか様、かか様。
お外に出たい。
神楽耶はもう、わがまま姫ではないのじゃ。
お稽古をしっかりして、立派な跡取りになるのじゃ。
**********
京都に帰ると、桐原が申して居ったとおり、神楽耶はかか様と奥座敷にいることとなった。
幾日が過ぎたのかもわからない。
・・・かか様は神楽耶を見るやいなや、奥座敷の祭壇で祈るようにと言った。
日本の勝利を。
ブリタニアの破滅を。
おかえりなさい、とも言われなかったことが少し寂しかったが、かか様の眼があまりにも真剣で、何も言えなかった。
神楽耶は何度も何度も祈った。
《破滅》という言葉の意味も知らずに、乞われるがままに祈った。
巫女ではないかか様も、髪を振り乱して必死の形相で祈った。
日の光も差し込まぬ部屋では、時間も何もわからない。
かか様の声が枯れる頃、奥座敷の襖が開かれた。
現れた桐原の後ろ、明るい廊下の向こうから、啜り泣きが聞こえる。
そして桐原が2言、3言を囁くと、かか様はその場に崩れ落ちた。
久しぶりに光の下で見たかか様は、見る影もないほどやつれきっていた。
それから、かか様はずっと泣いている。
神楽耶は今もかか様と2人、暗がりの中。
かか様は神楽耶が何を言っても、泣くばかり。
「かか様、かか様。どうしてそんなに泣いていらっしゃる?」
「かか様、かか様。ここは暗い。早う外に出ませんと。」
「かか様、かか様。このような所にいるから、悲しくなるのじゃ。」
「―――かか様、かか様。神楽耶は枢木の屋敷に行きたい。」
何度繰り返したかわからない願い。
それでも、今回だけは耳に届いたのか、かか様はゆらゆらと顔をあげて言った。
―――枢木の屋敷には、もう誰もおらぬ、と。
何故、と問うても泣くばかり。
誰もおらぬとは、どういう事じゃ!
・・・・鬼も、いなくなってしまったのか・・・!?
「・・・かか様、鬼もいなくなったのか?」
藁にもすがる思いで、泣きわめくかか様に尋ねる。
すると途端に、かか様は狂ったように笑いだした。
「鬼?鬼とな!忌々しいブリタニアの皇子たちなら、この世から綺麗さっぱり消えたそうじゃ!!いい気味よ!そうじゃ、きっと枢木の息子が冥土の土産に滅ぼしたに違いないわ!なんと天晴な!!」
**********
神楽耶は、逃げ出した。
ケタケタと笑いながら出鱈目に舞い始めたかか様を、置き去りにして。
飛び出した外では、ちょうど夕日が沈む頃。
慌ただしく動く家人たちは、誰も神楽耶に気づかない。
「・・・置いていかれた。」
頬を、涙がつたう。
「もう、いないのか・・・?」
唇が震える。
「もう、会えぬのか・・・?」
力が、抜ける。
神楽耶は、泣いた。
**********
神楽耶は、枢木のお兄さまが大好きじゃった。
ぶっきらぼうだけど優しくて、神楽耶のことを《皇の姫》ではなく、《神楽耶》として大切にしてくださるお人じゃったから。
お兄さまは、神楽耶の憧れじゃった。
神楽耶はあの美しい鬼に、好きになってほしかった。
冷たい物言いじゃったが真実を教えてくれて、神楽耶が《わがまま姫》ではなく、《皇 神楽耶》となる切欠をくれたから。
いつか、認めてほしかった。
連れ去りたいと思うほど、好きになってほしかった。
あの鬼は、神楽耶の目標じゃった。
―――2人とも、神楽耶を置いて、いってしまったのだな―――
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